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AI、IoTと労働運動(第3回)

(2017年12月27日) 

 AIは人間の生活や仕事、雇用にどんな影響を与えるのか? 「AIで、仕事とはどうなる?」(友寄英隆、『学習の友』2017年11月号)は、わかりやすく書かれた論文である。 
 友寄氏は、AIとは何か、その応用範囲が極めて広いことについて具体的事例をあげ説明している。そしてAIの発達と活用分野の広がりは「人類の科学文明と工学技術の急速な発展の結果であり、それ自体は、決して悪いことでは」ないが、資本主義社会では、利潤追求のために「個々の企業レベルの人減らしによる『生産性上昇』に拍車をかける危険」を指摘している。しかもAIの導入は、「これまでのような個々の企業、職場での『合理化』にとどまらずに、ある職種そのものがそっくりAIや人型ロボットに置き換わって、大量失業が発生する」危険を、野村総合研究所の報告や経産省の「新産業構造ビジョン」を使い説明している。 
 では、AIやロボットの発展に対してどう対応すればよいのか? AIやロボットの発展は、個々の企業にとどまらず職種、産業で広範な影響をもたらすので、「社会全体で労働時間を短縮するなど、労働条件を大幅に改善する条件が生まれ」、労働時間を短縮していけば、「社会全体の雇用を確保できる」と論じている。 
 しかしそのためには、利潤追求最優先の企業にまかせていてはうまくいかない。「社会的な対応、国家的政策がどうしても必要である」と友寄氏は論じている。 
 同じく友寄氏が『「人口減少社会」とは何か―人口問題を考える12章』(学習の友社)のなかで、「『人口減少社会』はAIやIoTで乗り越えられるか」を書かれているが、大変参考になる。この書では、「人口減少」「労働力人口の減少」をAIやIoTで乗り越えられるかという角度から論じている。このなかで友寄氏はAIやIoTについて楽観論や悲観論が論じられているが、いずれも根本的視点において正しくない。「AIやIoTを活用する社会制度の側の分析、資本主義的生産関係の分析が基本的に欠落している」と論じている。
 安倍政権は、2018年の通常国会で「働き方改革」法案を上程しようとしている。国民の立場からの「真の働き方改革」の実現のために、国民的運動が求められている。同時にAIやIoTを人間の幸せのために活用するためには、社会制度、資本主義的生産関係の学習を国民的に広げることが求められている。


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AI、IoTと労働運動(第2回

(2017年12月19日)

●AI導入で大リストラ 
 3大メガバンクが相次いで人減らし計画を発表した。アベノミクスの一環である日銀のマイナス金利で、本業の国内貸し出しの収益が低迷したのを、AIを導入して従業員を減らす計画である。 
三菱UFJフィナンシャルグループは、金融と情報技術(IT)を融合したフィンテックで業務合理化を進め、国内約480店のうち、1割から2割程度を削減し、今後10年くらいで約1万人の人員削減を計画。 
みずほフィナンシャルグループは、業務量を見直し、現在およそ6万人の人員を、10年ほどかけて、およそ1万9,000人減らす計画である。 
 みずほ銀行とソフトバンクが設立した合弁会社J.Scoreは、9月からAIを活用した融資サービスをスタートさせている。J.Scoreは、審査から手続きまで、ほとんど全てのプロセスがネットで完結するので、業務に従事する人数を大幅に削減することが可能だ。
 三井住友フィナンシャルグループは、5月に公表した3カ年の新中期経営計画で、フィンテックの進展や店舗政策の見直しによる効率化などで人員削減効果を約4000人としている。 
 保険業界でも人工知能(AI)の導入が相次いでいる。営業力の強化や事務の効率化が狙いで、日本生命保険は優秀な営業職員のノウハウを共有できるシステムの運用を4月に始めた。日本生命は、契約者情報など約4000万人分のデータを蓄積。成績優秀者の営業パターンをAIが分析し、全国の営業職員が顧客に新たな商品を提案する最適なタイミングなどを、携帯端末を通じてAIが助言する。
富国生命保険は1月、医療保険の給付金支払いの査定業務にAIを導入した。医師の診断書から病気や手術の内容を読み取って整理する。事務負担が軽減され、導入後、査定担当者を約30人減らした。 
日本経済新聞社、2017年1月、「決算サマリー」というサービスを発表した。企業の決算に関する記事を、人工知能が自動的に作成する技術である。様々な企業の財務に導入され、人減らしに結び付く可能性もある。 

●AI、IoTは人減らしだけでなく、労働者の行動・言動などもすべて把握し、AIが指示を出すという究極の「合理化」、「働き方改革」に活用されようとしている。 
 日立は「AI技術とウエラブル技術を活用し組織の幸福感を計測」する技術を開発した。これは、名札型ウエラブルセンサーを一人一人の労働者につけ、オフィスにもセンサーを設置し、「出社・退社時刻」「会議の長さや人数」「デスクワークの仕方」、そしてコミュニケーションの中身までもAIで判断し、一人一人の働き方を提示し、これよって業績を向上させる技術である。これと日立が開発したプラットホーム「ルマーダ」が一体となって高効率な営業や生産モデル構築が始まっている。不動産サービスの大手JLLがすでに導入しており、日立とトヨタも共同で始めている。


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AI、IoTと労働運動(第1回)

(2017年10月2日)

 AIやIoTについての提言や書籍がだされ、マスメディアでの取り上げも急速に増えている。労働組合運動としてどのように対応するのかが問われている。 
2015年ごろからAI、IoTにかかわる報告書が相次いで発表されているが、安倍政権は、2015 年6月の 「『日本再興戦略』改訂 2015」において、「生産性革命」の実現に向けた重要な柱の1つとして「第4次産業革命」を位置づけ、2016年6月に閣議決定した「日本再興戦略2016――第4次産業革命に向けて」において、「第4次産業革命の実現」の具体策をうちだし、その司令塔として「未来投資会議」を設置した。そして2017年には、「未来投資会議」での議論を踏まえ、今までの表題であった「日本再興戦略」を「未来投資戦略2017――Society 5.0 の実現に向けた改革」に変更した。 
政府諸機関にある推進体制と「報告書」については、関西経済同友会がまとめているので、それをベースに補強したものを掲載する。

主 催

 名 称

目 的

内閣府

未来投資会議

産業競争力会議及び未来投資に向けた官民対話を発展的に統合した成長戦略の司令塔として、「未来への投資」の拡大に向けた成長戦略と構造改革の加速化を図る

人工知能と人間社会に関する懇談会

幅広い観点からAI が進展する未来社会を見据えて、AI と人間社会の関わりについて今後取り組むべき課題や方向性を検討する。

2016年11月に報告書を発表

第4 次産業革命

人材育成推進会議

第4 次産業革命による産業構造や社会構造の転換を踏まえ、各産業で求められるスキルや能力等の人材育成について検討し、各省庁が実施すべき具体的な施策に反映する

ロボット革命

実現会議

ロボットを人手不足解消やサービス部門の生産性向上の切り札にすると同時に、成長産業に育成するための戦略を策定する。       

2015 年2 月に「ロボット新戦略」を公表

経済産業省

産業構造審議会

新産業構造部会

AI、IoT、ビッグデータ、ロボット等の技術革新を的確に捉え、AI、IoT、ビッグデータ、ロボット等の技術革新を的確に捉え、経済社会システムを変革するための官民の羅針盤を策定する。

2016 年4 月に「新産業構造ビジョン中間整理」を公表

経済産業省

商務流通情報分科会

2015 年 5月に「IoT 時代に対応したデータ経営 2.0 の促進」の中間取りまとめ報告書

総務省

AI ネットワーク社会推進会議

AI の開発原則・指針の策定や、AI ネットワーク化が社会・経済にもたらす影響とリスクの評価等、AI ネットワーク化の推進に向けた社会的・経済的・倫理的・法的課題を総合的に検討する。

2017年7月に「報告書2017 -AIネットワーク化に関する国際的な議論の推進に向けて」

総務省

IoT政策委員会

2017年1月「IoT/ビッグデータ時代に向けた新たな情報通信政策の在り方(第3次中間答申)」

厚生労働省

働き方の未来

2035:一人ひとりが輝くために懇談会

2035 年を見据え 個々の事情に応じた多様な働き方が可能となる社会への変革を目指し、これまでの延長線上にない検討を行う。

2016 年8 月に「報告書」を公表

総務省

文部科学省

経済産業省

人工知能技術戦略会議

AI 技術研究開発の司令塔として、総務省・文部科学省・経済産業省の3 省連携を図る。

2016 年度中にAI 研究、産業化のロードマップを策定予定

(関西経済同友会・雇用の未来委員会「提言 AI・ロボット社会到来による真のグローバル競争時代に備えて~希望ある雇用の未来を勝ち取るために」〈2017年4月〉より、一部補強。


 また、日本経団連「新たな経済社会の実現に向けて ~「Society 5.0」の深化による経済社会の革新~」(2016年4月)の中にも日本経団連がまとめた【政府における IoT、AI、ロボット等の検討・推進体制】の図が掲載されている(19ページ) 
 これらの推進体制を見ても、政府・財界がAI、IoTなど「第4次産業革命」、「Society 5.0」実現に向けて、急速に動いていることが読み取れる。 

 財界からは、下記の報告書が公表されている。 
①日本経団連「新たな経済社会の実現に向けて ~「Society 5.0」の深化による経済社会の革新~」(2016年4月)。 
 この報告書では、「第4次産業革命」(おもにドイツで使われ始めた)でなく、「Society 5.0」というコンセプトで、「産業の生産性向上のみならず、新産業の 創出とともに、少子高齢化やエネルギー問題等の社会課題の解決を図ることを 目的としており、他国の類似の戦略より対象範囲が広いコンセプトであるのが 特徴と言える。」と述べている。 
 政府も2017年から、「未来投資戦略2017  Society 5.0 の実現に向けた改革」と表題を変え、「近年急激に起 きている第4次産業革命(IoT、ビッグデータ、人工知能(AI)、ロボット、シェ アリングエコノミー等)のイノベーションを、あらゆる産業や社会生活に取り 入れることにより、様々な社会課題を解決する「Society 5.01 」を実現すること にある。」と述べている。 
②関西経済同友会・雇用の未来委員会「提言 AI・ロボット社会到来による真のグローバル競争時代に備えて~希望ある雇用の未来を勝ち取るために」〈2017年4月〉 
 表題にも表れているように、雇用問題を中心にした報告書である。


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この1冊が面白い!

(2017年4月4日)

『日本国憲法 解説と資料』(時事通信社、1946年出版) 
~国民主権、生存権だけではない。国家賠償責任、刑事補償、休息の権利、「文民」規定なども国会論議で追加 

 労働図書資料室の蔵書である本書は、改憲勢力とたたかい現行憲法を生かしていくうえで役立つ書である。 
本書には、①政府案と両院修正案対照、両委員長報告(議事速記録全文)、②新憲法の精神(金森徳次郎)、新憲法の性格(宮澤俊義)、③各党代表の賛否演説、④新憲法に伴う各法律の改正、⑤憲法改正日誌、⑥付録として英文「日本国憲法」が掲載されている。憲法制定時の重要な資料が1冊に収められているのである。 
現行憲法に国会(衆議院)審議の中で追加・修正された内容については、国民主権や25条の生存権などがあることはよく知られているが、第17条の「国及び公共団体の賠償責任」、第40条の「刑事補償」も追加されている。権力犯罪が後を絶たないが、これとのたたかいでも憲法に追加された第17条と第40条の意義は大きい。 
 第27条の勤労条件の項でも「休息」という言葉が追加されている。今、労働時間規制が重要な課題になっているが、「休息」が追加されている意義は大きい。 
また、貴族院での修正の中では、第66条に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」が追加された。安倍能成・貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長は、「第二章、第九条の戦争放棄の規定と相照応して、世界平和を末ながく続かせてゆくというさうゆう考慮から修正されたものであります」と説明している(本書89ページ)。 
 金森徳次郎は、「戦争放棄の実行面を確保するために、武力を持たないこと、交戦権を有せざることを宣言した」と述べたうえで、戦争を放棄することは「言葉のうえでだけではできがたいものであって国民がほんたうにその気持ちになり、ひとり戦争を放棄するだけではなく、心持においても戦争をしない決心を持たなければならない。もちろん、これがために、国内秩序の維持のために相当苦心を要するであろうが、これは覚悟をしてかかつたわけである。貴族院の修正において、内閣総理大臣は文民でなければならないとなつたのは、この戦争放棄の原理と一脈相つらなるものである」と述べている(本書21ページ)。 
内閣総理大臣を含む全閣僚が、国民の先頭に立って「戦争をしない決心」を広げていくために「文民」規定が追加されたのである。


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レッド・パージの被害の実態の資料

(2017年2月8日)

 1949年から1951年にかけてアメリカ占領軍の示唆を受けて、日本政府と財界の積極的な加担によって、推定4万人の共産党員と支持者、労働組合活動家を「企業の破壊分子」「公務を阻害する」などの烙印を押して解雇し、暴力的に職場から追放した戦後最大の人権侵害、弾圧事件です。 
 弾圧の実相、被害の実態は、日弁連の救済勧告(2008年と2010年)と横浜、長崎、仙台、京都、長野、東京、群馬、札幌、千葉、熊本、福岡の各地の弁護士会の救済勧告でも明らかにされ認定されていますが、被害の実態はまだまだ未発掘です。政府・最高裁が一貫して被害者の名誉回復を門前払いし、実態調査も行っていません。 
 レッド・パージから65年以上が経過し、4万人ともいわれる被害者の多くが高齢化し、相次いで死去するなか、今、被害者が語る真相を明らかにすることが緊急に求められています。 
 労働図書資料室では、レッド・パージ反対全国連絡会の協力のもと、弾圧と被害の実態を収集していますので、協力をお願いします。 

●現在収集されている図書・資料は。労働図書資料室の「レッド・パージ関係」の項目でみることが出来ます。


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「総司令部労働教育叢書」の蔵書をお持ちの方は寄贈をお願いします

(2014年6月16日)

『総司令部労働教育叢書第1輯 民主的労働組合とは何か』
 組合の責任を呼びかける
本書は、労働民主協会が1947年1月20日に発行した書籍であり、GHQの発行認可番号は350、03ノ15である。総司令部労働教育叢書は、総司令部労働課関係官が労働組合、政府諸機関の代表を集め講述したものを集録したものである。「総司令部労働教育叢書刊行に際して」と題したまえがきには次のように記されている。
 「最近頓に活発化せんとしつゝある労働運動は民主的労働組合に基く健全にして、日本産業再建の為の運動でなければならぬ。凡面ゆる面に於いて立遅れたる我国労働運動の正しき発展、成長の為本協会は総司令部の許可を得て に司令部の意とする労働者教育活動を大衆に紹介するの機会を得た。(中略)尚本協会は別記の趣旨に基き既に独自の立場を持って活動を開始した。常に識者及総司令部労働課と連絡を保ちつゝ諸氏の便宜を計らんと努力して居る。本会の趣旨に賛同する者は吾々に意見と希望を述べ、直ちに連絡せられんことを切望する。」
 労働民主協会は「一、民主的建設的労働組合組織の確立を期する。一、階級的利己主義を排し、協力を勧める。」など5項目の綱領を掲げ協会加入を呼び掛けている。当該組織の当時の住所は、東京都神田区駿河臺2丁目3番地である。
総司令部労働教育叢書は第14輯までが計画され題名が巻末に掲載されており、「以下続刊」と記されている。残念ながら、労働図書資料室には第1輯しかない。蔵書をお持ちの方は寄贈いただければ幸いである。GHQの労働組合の考え方を知るにはかかせない資料と考える。
『第1輯 民主的労働組合』は、総司令部経済科学局労働課教育班長 R・L・G・デヴラルが講述したものである。
 本書の終わりに近いところに「組合の責任」の項がある。過重な要求をストライキやサボで押し付けようとする組合は無責任組合であるとし、「これは組合は権利のみを持ち義務を持たぬと云う誤った考えに基くものである。」としている。そして「組合の責任とは使用者側と直接会って紛争を解決し、より良き賃金、労働時間、労働条件を交渉する方法を講ずることである。この為にストライキや他の闘争手段に訴へず総ての不満を円満に解決し双方に満足な制度として職場組合委員制度の如きを作ったらよいと思う。」「組合員は自分自身及び組合のみならず会社に対しても責任を果たすべきは云うまでもないことで更に会社、国家に対しても責任を持つべきである。自己の責任を果し、義務に従って行動してこそ始めて組合運動は健全なものとなるのである。」
 デヴラル氏は、組合員が会社、国家への責任と義務を果たすこと、組合は争議行為ぬきで会社と交渉することが組合の責任である、と説く。「民主的労働組合」の本質があからさまに表現されている。


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「レッド・パージ関連資料」の収集作業開始―協力のお願い

(2008年11月19日)

 (財)全労連会館付属「産別会議記念・労働図書資料室」(滝野川資料センター内)は、「レッド・パージ関連資料」の収集に力をいれています。これは階級的労働組合の産別会議解体攻撃に続いてわが国の労働組合運動を反共組合に変質させるアメリカ占領軍と支配階級の戦後史に残る攻撃であり、当資料室の目的意義とも合致するものです。 
 また、この資料収集は「レッド・パージ反対全国連絡会」が総会方針として「レッド・パージ関連資料図書館」開設を呼びかけとことに呼応したもので、「労働図書資料室」が資料収集とともに収蔵場所の提供に協力する形で進行しているものです。 
 この作業はまた、60年前のレッド・パージ犠牲者の救済申し立てを受けた日本弁護士連合会がさる10月24日、レッド・バージを憲法違反の人権蹂躙事件として政府と関係企業に「被害者の名誉回復と補償」などの救済措置を取るように勧告したことを受けて全国的な「レパ犠牲者の名誉回復・補償要求運動」の連携と高揚をバックアップしていくことを願って進められるものです。 
「資料室」では、これまで収集されている資料名を下記に発表し全国の関係者・研究者のさらなる協力を呼びかけるものです。


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労働組合年史関係提供のお願い

(2008年11月10日)

 当会館では滝野川資料センター(旧統一労組懇事務所所在地)に労働運動総合研究所(労働総研)と共同して「産別会議記念・労働図書資料室」を開設しています。既に3万冊におよぶ労働図書資料を収蔵して公開を開始しています。 
 今般、当資料室が収蔵資料の特徴としている労働組合の年史関係資料の更なる収集を行なうこととしました。関係者の協力をお願いします。 

◆提供いただきたい【年史】類 
 ①ナショナルセンター関係・○○年史 
 ②各産別・単産年史関係 
 ③各単組年史関係 
◆戦前の労働組合運動関係書 


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古川 苞─その不屈の生涯


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亀戸事件と多喜二─現代を撃ちつづける小林多喜二

亀戸事件85周年追悼記念学習会のお知らせ(2008年8月28日)

 今から85年前の1923(大正12)年9月1日正午前、関東地方をマグニチュード7.9の大地震が襲い大被害をもたらしました。軍隊と警察は、戒厳令をしき「朝鮮人が井戸に毒をまいた」などの流言飛語を飛ばし自警団をそそのかして6000人以上の在日朝鮮人などを虐殺しました。特高警察はこの混乱に乗じて、亀戸周辺で救援活動に参加していた労働組合幹部や社会主義者を拘引し習志野騎兵連隊の手でその10人を虐殺しました。世にいう「亀戸事件」です。 
 いま話題の「蟹工船」作家の小林多喜二は、小樽から犠牲者の一人作家の平沢計七の追悼会にメッセージを送り連帯を表明しました。こうしたきっかけから多喜二は社会主義運動や新思潮への関心を高め、やがてプロレタリア作家として成長します。その多喜二自身も10年後、築地警察で特高警察に虐殺されました。今回の講演ではスライドを使用して多喜二と「亀戸事件」との関わりを明らかにしつつ、今日に生きつづける多喜二の実像に迫ります。 

日時:9月9日(火)午後6時30分開会
会場:江東区カメリアプラザ9階
参加費:無料
主催:亀戸事件追悼会実行委員会(03-5842-5842日本国民救援会内)


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小林多喜二周辺研究 試論 Ⅰ −「伊勢崎事件資料集」補追


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高橋とみ子と尚絅女学校のもう一つの歴史
(2008年9月23日)

野 呂 ア イ
(尚絅学院大学名誉教授)

はじめに
 憲法9条をはじめ人権と平和を守る連帯に自分の身をおきながら、いかに次世代へ戦時下の状況を伝え、活動の輪を広め確かにしていくか―こうした課題の中で出会った史実は、治安維持法下で若くしてこころざしを絶たれた乙女たちのことであった。特別に衝撃的だったのは、私の長年の職場であった「尚絅(しょうけい)女学院」(2003年度より尚絅学院)の卒業生たちの存在であった。「伊藤千代子」の名前は聞き知っていたが、高橋とみ子さんについては3年ほど前の「墓前祭および偲ぶ集い」(2005年11月17日)へ参加して以来わかってきたことである。2002年2月に「尚絅女学院100年史」が発行されたが、残念ながらこうした卒業生たちの名前や史実は記載されていない。すでに、治安維持法国賠同盟宮城県本部並びに「伊藤千代子の会」の皆さんによって研究・報告されているところによっても、尚絅女学校同窓生の群像が浮かび上がっている。それらの資料を参考にしながら、尚絅における当時の教育特徴や社会的背景・人的関連などをたどり高橋とみ子さんを追悼したい。

高橋とみ子の尚絅在学証明
 2006年の夏に学籍簿の保存確認を学内でしたところ、幸いにも「家政科学籍簿(自大正12年3月 至昭和14年3月)尚絅女学院専攻部(高等科家事科)」の綴りの中から見出すことができた。戸籍名は「高橋とみ」(明治四十二年十一月二十五日生)、住所・原籍「仙台市東二番丁二十九番地 士族戸主」、職業「会社員」、父(保証人)高橋勇吉二女、入学前の学歴「宮城県第二高等女学校卒業」、入学年月日「昭和二年四月」、卒業年月日「昭和五年三月二十二日」、操行「優」、家事関係科目は八〇点以上、修身・聖書、国語・漢文、哲学、経済学、社会学等も八〇点以上、体育と音楽が七〇点前後、3年間の平均成績は七八から八〇点を示したが、席次は中の下というところである。幸いに、昭和5年卒業生の集合写真(1930年3月14日)の中に20歳の彼女と出会うことができた。(墓前祭での遺影はこの写真の顔を引き伸ばしたもの。)

尚絅女学校のあゆみと教育の特徴
(1)創設のころ
 1890年にアメリカの若い女性宣教師たちによる家塾に始まり、「尚絅女学会」を経て「私立尚絅女学校」は「高等女学校令」に準拠する「各種学校」として、1899年(明治32年)11月24日に宮城県知事の認可を得て設立された。初代校長ミス・A・S・ブゼルの教育は、少数・全寮制度によって「キリスト教の精神」に立つ建学の精神を基に展開された。校名の「尚絅」(中国の「中庸」の第33章の句「衣錦尚絅―身に錦織の着物を着ても絅をくわえて(薄衣の打ち掛けを重ねて)それをつつましくかくす」よりとられた)の意味するように、聖書「ペテロの手紙1」3章3,4節の内容と重ね、裏打ちされてキリスト教精神に基づく教育理念が確立されていった。表面は質素で、内面的に豊かな人柄としての装いを卒業生は一人一人尊ぶようになった。
ブゼルは日本の民情風俗に親しみ、その美しい習慣を強調され、家庭で日本婦道の長所を発揮することを勧めた。教育とは教えることではなく、共に生活をすること。卒業生の感想には、信仰でも、義でも、愛でも、概念として頭に注入するばかりでなく、身をもって当ってみねばならぬ訓練の教育であり、学校は人間をつくる道場であったとある(70年史p.93)。聖書の時間は週に2~3時間、英語は7時間あった。
(2)充実・転換期のころ
 10名前後の生徒と数名の教員たちがエラ・オ・パトリック・ホーム(1896年落成)で生活を共にしていたが、1903年に校舎と寄宿舎が増築された。また、1910年に高等女学校として上級の「(高等)専門学校(旧制)入学者無試験検定」資格認定を受け、上級学校への進学の道が広まり、さらに5年制の学則変更をして生徒数も増加した。
 2代目の校長としてミス・M・D・ジェッシー(30歳)が1919年から26年まで就任した。ミズリー州立大学で歴史、英文学、生物学、地質学を専攻した他、コロンビア大学では宗教教育学を専攻し、盛岡の幼稚園園長としての5年間の経験がフィールド・ワーク認定によってマスターの学位取得、さらに家政学の単位も修めた、トップレベルの学歴の持ち主であった。彼女の活動ぶりは尚絅女学院が女子の高等教育機関へと発展しようとしていた方向と合致したとみられている。そこで、早速に取組まれたのは上級コースの「高等科」開設の準備であり、翌年1920年(大正9年)に高等科が創設された。1922年(大正11年)までに家政科を廃して家事科へ名称変更すると共に、内容の専門化を図っている。3ヵ年の英文・家事・音楽科、1ヵ年の英文予科・音楽予科と選科(1ヵ年以上)が認可され、当時の女子の高等専門学校への社会的要請に応えるものであり、戦後の短期大学開設の前身に当るものであった。
 学校はこの時期に大きなステップに入るが、志願者・入学者が増えて寄宿舎や教室不足をもたらした。ミス・ジェッシーの建築新構想に導かれて、1924年(大正13年)に寄宿舎が建築され、さらにインディアナ州の信者からの寄付を主たる資金として高等科校舎インディアナ・ビルの新築が1929年(昭和4年)に実現したのであった。しかし、計画の段階では友好的だった日米関係は、世界的不況と日米の経済摩擦や満洲事変後の反日感情の高まりなどで急速に悪化していた。ミッション補助金の減額や市内の高等女学校増設に伴う入学者数の減少によって経営危機という苦難の時期に入った。ミス・ジェッシーは募金活動に奔走し、心労で倒れて療養を余儀なくされ、尚絅を一時離れた。1924年6月に川口卯吉が主事に就き、9月からは校長代理を務め、さらに1926年2月に校長に就任した。川口は若い頃に渡米し、1914年シカゴ大学から哲学博士の学位を受けて帰国、バプテスト神学校の教授を勤めていた。
 伊藤千代子が在学した1924年から25年、高橋とみ子が在学した1927年から30年の時期は、尚絅にとって多難な時期ではあった。しかし、新寮(第二寄宿舎または広森寮と称した)での生活、新校舎での学びに学内の活気を想像できる。寮の廊下は広く、洋式の部屋にベッドやテーブル付き、一室に10人の他、応接室や食堂の共用室があったようである。朝5時起床、夜9時消灯・就寝、毎朝夕の礼拝、日曜日の教会礼拝と学校教会の生活に、千代子の場合は、進学の目的を持った受験勉強への集中が難しいと考えたのではないだろうか。11月から石切町の松生義勝先生宅へ寄留となったが、そこでは1924年本科卒の斎藤(筒井)なを子が東京女高師を目指していた。キリスト教教育の実践の場としては寮生に期待されるところが多く、信者となる率も寮生が高いとみられた。
(3)校長と教育の特徴
 ミス・ブゼルの教育が当時の士族と平民との差別感が残っていた時代に応じた厳格なしつけによるピューリタン的なものであったと卒業生たちの感想がある。第一次世界大戦後は、時代の風潮の中で民主的な、自由な社会人を育てる教育に変わった。ミス・ジェッシーの冒険心に富んだ行動力は、未来を展望した学校運営体制の転換を実現したが、校長としての教育方針の中には「平和教育」が注目される。第一次大戦の「平和条約」締結(1918年)を記念して4年後の記念日(1922年11月11日)当日に、「平和の意義」について全校生徒に語っている。100年史の中(p.203)より次に引用する。

 平和という言葉は人の注意をひく美しい言葉であります。その平和の訪れを聞いたとき、世界の人々は歌いつつ行列をして大喜びをしたのです。それは今より四年前、すなわち1918年の今月今日でありました。……私共の平和は、キリストの平和、正義、道徳的の平和であります。猜疑、掠奪、残忍の中の平和ではありません。今日、本当の平和がないのは、我々がキリストの精神を受けていないからであります。……
 どこの国も、軍のために莫大な金を使って惜しみませんが、平和のためその百分の一の半分も金を費やしていないのは、本当の平和というものを考えていない証拠であります。平和はたしかに一つの科学であります。しかし、どこの学校でも、また教科書の中でも平和について教えておりません。今後各国は、挙って研究しなければならぬ「新しい科学」なのです。いかにしてこれを学ぶべきか、これは皆が考えて行かねばならぬ問題です。平和の根本問題は兄弟の愛をもって互いに愛する事で、交際も商事もそれに従属して行はれねばならないものであります。……

 80年以上前の主張は現在も色褪せていない。今日の尚絅の平和教育に連なっている。
 ミス・ジェッシーの後に着任した川口校長の初仕事は、ミッション・ボードが減少し続ける中で学校の財政基盤の構築を国内で進めることであったので、同窓会と父兄会(保護者会)を組織し、修繕費や改築費の寄付金を募った。また、学友会が設立されて活発な活動をしだした。アメリカン・バプテスト婦人伝道協会から財政独立が実現したのは10年後のことであった。2つ目の問題は、1920年代に始まり30年代に至るまで日本の若者たちを巻き込んだ近代思想の高波であったといわれる(R・L・スティブンス「根づいた花」p.58~59)。当時の学生たちの動きを伝えている部分を引用する。

 それが尚絅だけを迂回するわけはない。川口校長にはこの問題をきわめて思慮深く取り扱う力量があった。少女たちは新しい社会主義・共産主義思想を満載した新聞をむさぼり読んだ。キャンパスの至る所で活発な討論が持たれた。学生ストライキが他校を大きく揺るがせていた時、川口校長は生徒と教職員の間の交流のパイプを開いておくことに心を配り、彼女たちがキリストの教えと社会主義・共産主義思想を対比検討するのを助けることによって、大きな対決を回避した。生徒たちはたちどころに教会の勇気の欠如に気づき、それは社会体制のあり方への鈍感さからきているのではないか、と問いかけた。彼女たちは次のような問いを発した。「なぜキリスト者は真実のキリスト教の原理を主張して、社会主義と対決しないのでしょう」「神様がどうして世界に貧困をもたらすのですか」「どうすればキリスト教社会を実現できるのでしょう」「社会主義者たちに神の恩寵が与えられるよう、私たちは何をどうすればいいのでしょう」「日本の教会の内部はどうすれば改革できるでしょう」。彼女たちの自由に考えようとする心を、川口校長は決して上から抑えつけることをせず、激動の時期をたくみに導いていった。

 ミス・ジェッシーは学校での生き生きとした宗教生活を可能にする上で、学校教会、学生YWCAの力を重視していた。特にミス・ブゼルが1918年に始めたYWCAの尚絅支部組織が1924年までに200人以上の生徒会員を持ち、12人の役員の活動が目覚しいと評価していた。それ故、社会主義イデオロギーに向かう青年の運動が全国的に広がり、その影響を避けられなかったにもかかわらず、尚絅ではYWCAが年々大きくなるにつれ、バプテスマを受けた生徒数も増えていき、「キリストの証し人であり続ける」ことが奨励されたと思われる。

時代的・社会的背景および人的関係の影響
(1)時代・社会の動き 
 高橋とみ子が在学中の3年間には、初の普通選挙実施で労農党の山本宣冶らが議席獲得、治安維持法の下での3・15弾圧事件、関東軍による張作霖の爆破、治安維持法改悪、特高を全県に配置、日本労働組合全国協議会結成(以上1928年)、日本プロレタリア美術家同盟・作家同盟・演劇同盟の結成、山本宣冶暗殺、4・16事件、そして伊藤千代子24歳で死去(以上1929年)と、国民層の民主的な動きとそれを弾圧・抹殺する支配者層の動きが対決した。高橋とみ子が在学中に社会問題についてどのような関心と学習をしていたのか定かではない。全寮制を原則としていたが、定員増で自宅通学も一部認めていたようなので家庭の事情では寮生でなかったかもしれない。しかし、推測するならば、選択履修科目の中の哲学を2学年で、経済学と社会学を3学年で履修し成績優秀であることから、社会科学への強い関心と意欲が認められよう。「千代子の会」の資料(試論14新版p.26)によれば、1927年3月に全国組織としての女子学生社会科学研究会第1回大会に尚絅女学校から代表が参加している。その代表の佐々木八重子は本科5年生で卒業式前後の参加と思われる。ここで東京女子大社研代表の伊藤千代子(高等科英文予科卒)との接点がみられるが、高橋とみ子は入学前のことであった。八重子は5年後に「満洲」から同窓会にたよりを寄せているが、その後の消息は不明である。なお、大原(旧佐々木)梅子さん(日本プロレタリア演劇同盟仙台支部)は、尚絅女学校高等科(家事科)でとみ子の1年後輩に当たり、家も近くよく交流しあっていたようである。
(2)活動と人柄
 同窓会誌「むつみのくさり」第23号の<個人消息>家事科第八回卒業生欄には、「先年来東京方面にいらっしゃいましたが、近頃は今度花京院に開かれましたパリー学院にお通ひでいらっしゃいます。パリー式の洋裁を私共にも御教へ下さいませ。」(昭和7・7・10)の記載がみられる。社会主義運動への関心は画家の次兄辰雄の影響を受けていたとみられるように、東京の美術展へも兄と連れ立ったようだ。
 尚絅を卒業後は片倉製糸工場(東八番丁)で女工たちのサークルに洋裁や生け花などを教えながら真実のことを語り、全協労働組合の組織拡大活動に参加、プロレタリア美術家同盟の仙台支部やエスペラント協会にも参加、1934年の逮捕時には共産青年同盟に加盟していたといわれている。在学中も家事関係科目を得意としたことがわかるが、母親と早く死別していたのでこまめに家事をこなし、周囲の人に気を配るやさしい人柄が共に活動をした方々から偲ばれた。エスペラント語で「紅い」を意味するルージュ色の頬をしていたので、ルーちゃんと呼ばれて親しまれていたこと、旭紡績で働いていた仲間(山本すぎさん)を訪ねて、おみやげに便箋や封筒、バター1箱にお金3円を持ってきてくれたこと、帰り際に「みんなが心配しているから体に気をつけてね」という言葉を残して去ったこと、一方で、取調べでは「一言もしゃべらぬ強情な女」であり、「全協支部における最戦闘的女性として重要な役割を占め、旭紡績、片倉製糸仙台工場等を職場として分会の拡充強化に奔命中一斉検挙にかかり、仙台署から10月29日夕刻中新田署に護送留置さるるに至った。──軍職に在る長兄の栄達が自分の連座に依って障碍となるであろうことをおそれ、──護送後15日目の11月21日午前5時、監視の隙をうかがって腰紐を3つに引き裂いて結び合わせ、これで己が頚部を締付け、舌を噛んで凄惨ない死を遂げたのであった。──留置場に一片の遺書もなく散る女闘士“くみ”」(昭和十年三月二日 河北新報)。官憲側の発表にもとづく新聞記事が報じた最期であった。
 しかし、実際のところ1934年9月から10月にかけて宮城県下に「9・11事件」と呼ばれる大弾圧が襲い、高橋とみ子は10月20日仙台市の自宅で逮捕され、県内の留置場をたらいまわしにされたのち、1ヶ月後に県北の中新田警察署の裏口から菰包みの死体となって引き出され、家族のもとへ帰されたのである。遺体を引き取りに行った父親は、「全身紫色に腫れあがり、首にひもをかけた跡もなかった。拷問のすえ心臓麻痺を起こしたのだろう」と近親者に漏らしている。戦後になって、当時中新田署の嘱託医であった鈴木ただす医師が同町の佐藤庄七氏へ告白したところによると、「留置人が自殺したので検視してくれとの事だったが、だが自殺したような所見もなく、全身紫色に腫れていて殺されたのだと直感した。しかし、当局の態度にやむなく自殺と判定した。──真実を主張する勇気がなかった」と。とみ子と同日に逮捕され、特高警察の拷問取調べを受けた阿部和子(1938年尚絅女学校専攻部保母科卒)さんは、女性としてとても言葉に言えぬ暴行・拷問を受けたと証言している。治安維持法の傷あとは、正しく「昭和」史の影である。日本を侵略戦争に駆り立てるために、支配者は戦争に反対する者、共産主義者やそれに近い考えの者を弾圧した。とみ子も25歳の誕生日を目前に、いのちを絶たれ、こころざしを絶たれた国家権力の犠牲者であった。
(3)若者たちのこころをどう支えるか―大正デモクラシーの光と影
①バイブル・クラスのこと
 ミス・ブゼルには1893年から1919年までの27年にわたって、学外の男子学生・生徒を対象としたバイブル・クラスを指導する仕事があった。日本語を十分習得していない段階で、通訳なしのクラス開始であったが、旧制二高生16,7名が土曜日の夜に集まって行われた。出席するようになった動機はさまざまで、英語を学ぶために、西洋文化への憧れ、友人に誘われるままになどあったが、ブゼルの人格と宗教的情熱に惹きつけられて熱心に聖書を学ぶ者になっていった。すでに、東華学校(同志社姉妹校)在学中にミス・ブゼルの感化を受けて受洗(17歳)していた栗原基は、1895年旧制第二高等学校に入学すると、同級生や同校の基督教青年会の会員をバイブル・クラスへ誘った。
 メンバーたちは「学力優秀で、学校でも屈指の人々」(栗原)で、学校内でも影響力をもっていた。小西重直(後に京大総長)、土井亀之助(晩翠の従弟)、吉野作造(後に東大教授・朝日新聞社勤務)、内ヶ崎作三郎(後に早稲田大学教授・衆議院議員)、小山東助(後に関西学院教授・代議士)、島地雷夢(父:仏教界要職、教員)結城豊太郎(後に日銀総裁・大蔵大臣)、渡辺幸次郎(尚絅の主事に在職中病死)、飯塚啓(後に学習院教授・東京動物園長)、守屋孝蔵、深田康算、永井亨、斎藤信策(高山樗牛の弟)ら他が参加して信仰活動を盛り上げ、二高のルネッサンスといわれた。彼らの多くは東大へ進学し、「東京帝国大学基督教青年会」のリーダーや中心的メンバーとして活躍した。また、本郷教会(海老名弾正牧師)の機関誌『新人』や青年会会誌『六合雑誌』誌上への文筆活動を行った。(尚絅女学院100年史p.77~83)
 10代半ばから20代初めの若者はこころが揺れる時期である。これまでは宗教団体に関係する者は学業の優秀ならぬものであると目されていたのに、今やそれ以外の者までが、進んで参加したことを驚異の目でみる人がいることをブゼルはみていた。若者たちは世の中の矛盾に気づいたとき発展・展望の哲学をどこに求め、どうするのか? 1つはキリスト教へ関心を寄せて宗教活動に参加していく道がある。若者の中には煩わしい社会から逃避して「マニアに罹っている」者もいる。日露戦争の最中、理性の重荷に耐えかねて東大生は人生問題に思い余った末に日光の華厳の滝に身を投じた。2ヶ月もしない間に警戒をよそに13回の自殺行為が景勝地で行われたほど「感染」している。世のために成すべき仕事があることを顧みないとブゼルは指摘し、キリスト教青年には当てはまらないという(栗原基編「ブゼル先生伝」p.361-2)。しかし、もう1つの道は、真実を求めて社会科学への関心を寄せて世直しの活動へ参加していった若者たちの生き方である。
②吉野作造の働きと民本主義
 吉野は1892年(明治25年)古川尋常小学校を卒業し15歳で仙台市にある宮城尋常中学校(私立東華学校廃校後開校、県立第一高校の前身)へ入学した。ここでは国語学の泰斗として著名な大槻文彦校長の下で薫陶を受け、東華学校の校訓「真理を求め善をなせ」と共に教育環境、伝統が継承されていた。「自由」な校風が高まりをみせていた3年生の秋に、大槻校長が病気のため辞職した。後任の校長は極めて厳格な干渉主義の指導方針で臨んだ。その結果、校長排斥のストライキが全校生徒参加で発生した。尋中5年を卒業後、さらに第二高校の3年間を通して「仙台の地で培養された原型質が、吉野作造のその後の人間形成にふかくかかわっていたことはいうまでもなく、また、この地で結ばれた友人関係が、大正デモクラシー運動の中核となっていったことも見過ごせない」(西田耕三「若き日の吉野作造と仙台」p.38)。1900年(明治33年)9月、東大法科大学政治学科に入学し、先輩の内ヶ崎や栗原、同期の小山らと東北青年が日本の精神文明の原動力になるべく東京生活に入った。専門の学問では小野塚喜平次博士から、人格と思想形成では海老名牧師から大きな影響を受けていった。大学院に進んだ後、工科大学の講師に、1906年から1909年まで清国直隷総督袁世凱の長男克定の家庭教師として中国で過した。帰国後東大法科大学助教授に任ぜられるが、翌1910年3月から1913年7月までの3ヵ年間はドイツ・イギリス・アメリカへ政治史および政治学研究のため留学した。留学中には積極的に街へ出て、事象を肌で感じとる勉強を重ねて、労働・社会・人種・政治の問題に多大な関心を持つことになった。帰国後、『中央公論』誌上発表の論文が注目され講座担当教授へ任官、また『東北教会時報』に「戦争と基督教」(小石川教会の伝道説教要旨)の一文を載せた。宮城県の教育界との結びつきを持ち、教員の研修・研究会で講演をしている。教育者たちへの希望として排外思想を改め、世界に通用する人間、広く世間を見る人間を作ってほしい、そのためには旧来の弊風を脱し、種々の点において実際生活より築き上げた知識の養成をはからねばならないと訴えている。中国や欧米生活の経験からの世界情勢の内容には説得力があったようである。
 講演・講習会を通して政治教育に乗り出した吉野が痛感したのは、識者層(中学校長等)の立憲思想に対する理解不足であった。今こそ立憲政治の真義を説くべき時と考えて世に提示したのが民本主義であった。1919年5月の仙台における民本講演会(大学卒業生、学生を中心とする雑誌『我等』の読者による計画)には大山郁夫、長谷川如是閑と吉野作造が参加したが、満員の聴衆が夕方から集まり夜10時近く散会したとのこと。 
 この状況は第一次世界大戦後の日本の社会背景にあるとみられる。1918年の8月、寺内内閣はロシア革命への干渉戦争に参加するためシベリア出兵を宣言したが、米価高騰に苦しむ民衆は不満・不安感を強め、米騒動が富山県に始まり全国的に広がっていた。
 政府はこの動きを抑えるため米騒動に関する一切の記事の掲載禁止を報道機関に通達。 
 新聞社はこれに対し言論擁護、寺内内閣打倒の大会を開いて対決姿勢を強めた。関西記者大会の模様を伝える『大阪朝日』の記事表現が朝憲紊乱に当たるとして当局は『大阪朝日』を告発し、政府・検察・右翼が一体となって弾圧に乗り出した。右翼の襲撃・暴挙、浪人会による非国民呼ばわりのおどしの中で、社長、編集局長、長谷川社会部長、大山論説委員はじめ主要執筆者が退社。長谷川、大山の手によって『我等』が創刊され、吉野も応援した。民本講演会はこうした背景の下で行われたもので、吉野は自由と平等を尊ぶ民本主義の立場から、当時の朝鮮、中国の問題、さらには社会主義、過激主義について述べたといわれている。日本の抑圧的な朝鮮政策を批判し、独立を志す朝鮮人学生に理解と援助をおしまない、また中国の革命勢力を支持し援助・交流を続けていた。(永澤王恭「吉野作造と宮城のかかわり」p.146-150)。吉野の関心は国内において政治の民主化を進めることと同様に、隣国の国民的独自性にも注がれており、そこにも民本主義が貫かれていたのだろう。
 民本主義の学問的根拠には、階級の社会を打破して全人の社会を造るという点にあるといわれる。その意味は、その国家に属する総ての人をして完全にその能力を伸張せしむるということである。民本主義は物質、精神両面に於て国民の生活が維持せられ、発達し得る保障を要求するもので、具体的には 生存権の主張、民政権の要求、能力の発達を可能ならしむる組織の実現の主張をあげている。社会主義または過激派の主義と区別されるものであるとして、社会主義過激思想の欠陥を指摘しつつも、社会組織の欠陥を見出したことについて評価している(講演会記録:河北新報)。
 さらに労働問題および普通選挙論を執筆・講演で取り上げ、問題の原因・根本を説きつつ労働運動(賃金労働者、農民)の方向づけをした。選挙権拡張も労働問題解決の同じ基盤にある。婦人参政まで至らぬが、普通選挙制によって選挙界の腐敗を一掃することを主張した。実際、1924年(大正13年)に東大を辞職して朝日新聞社の社員となり内ヶ崎と赤松克麿(労農党と社民党の統一候補)の選挙応援に宮城県入りをした。
 吉野の民主主義、自由主義、平等、平和を求める活動は尚絅女学校の学生たちに何らかの影響を与えたであろうと思われる。尚絅が世界に開かれており、アジアに目を開いた交流として、すでに同窓生の佐藤をとみ(郭安那)と佐藤みさを(陶弥麗)姉妹による中国との交流という事実があった。日本における身をかくすような彼女たち家族の生活の支えに、吉野の存在があったことは否定できないだろう。
③栗原基による活動の支え
 栗原の存在は吉野のように目立たないが、バイブル・クラスの活動をはじめ、常に基督者としての自覚と信仰に貫かれていたことがわかる。吉野の1年先輩として東大文学部(英文学科)へ入学した後も、本郷教会に属し海老名牧師の下で信仰の道を深められた。大学院卒業後、広島高等師範学校教授として赴任するが、これに先立って結婚されたお相手は大阪マリアで、東京駿台英和女学校付属小学校卒業し尚絅女学会2人目の卒業生である。またエラ・オ・パトリック・ホームへ移転後の最初の卒業生である。卒業後はミス・ブゼルのヘルパー(通訳)として奉仕し女学会で英語と音楽を教えた。上京して女子学院高等科に学び、広島時代には広島女学院で教鞭をとっていた。 
 10年後栗原は京都市YMCA主事へ転任、3年後(1915年)には第三高等学校教授に就任。厨川白村の後任として小西重直等の推薦があった。聖書研究会を主唱指導し「黎明」を発行、キリスト教と民主主義を基調とした論旨は、大正デモクラシーの先鞭をつけたといわれる。大戦後学生を引率して南洋諸島へ旅行しているが、この学生の中には山本宣冶がおり、凶弾に斃れるまで基先生に私淑していた。18年より三高基督教青年会付属主事宅に寮監として入居し、以後約17年間(昭和9年まで)三高YMCA寮の学生と親しく接した。1920年から1年余り欧米に留学、1930年9月に三高教授を退職(講師で継続・55歳)した。数年来三高を襲ったストライキ事件の思想的攻撃に堪え、孤軍奮闘されたが、嵐の過ぎ去るのを待って潔く退いたとみられる。24年から8年間同志社女子専門学校講師をされたが、教え子の1人は「われキリストを説かず、ねがわくば、キリストを生きん」の言葉を思い出集に寄せられている。ミス・ブゼルの生き方がそのまま基先生の生き方であったと伝えた(宮下千代「栗原基先生の思い出」追悼集p.230-233)。学生たちにとっての支え手であっただけでなく、父親として時代の動きに対しての先達でもあったように思われる。1922,3年ころ学生連合会が結成されていくが、旧制第二高校では社会思想研究会が鈴木安蔵、栗原佑ら20余名で組織されていたようである。鈴木安蔵は後に日本国憲法の草案づくりで活躍されたが、彼と連れ添った妻・俊子は基の長女であり、佑の妹である。彼らが京都大学生のとき・1926年に治安維持法初の検挙事件があり逮捕されるや、寝食を忘れての救援活動をし、力づけがあったこと、学問的業績の基礎は岳父の物心両面にわたる支援なくしては不可能であったといわれる(鈴木安蔵「岳父栗原基をしのぶ」思い出p.95-98)。キリスト教が国家権力の側からは歓迎されない時代に、キリスト教徒となってつねに人々の縁の下の力持ちになることをあたりまえのこととしてなされた。「近代的なヒューマニズム、個人の神との直結という点で、日本の近代化に新鮮な、批判的な思想運動、社会運動を意味した。」

おわりに
 栗原基や吉野作造は東京の本郷教会活動を通して新渡戸稲造・安井てつという東京女子大スタッフ、津田梅子らと交流の機会があったと思われる。尚絅女学校とのつながりも、学生間同士だけでなくスタッフレベルでの人的交流・情報交換が有効に働いていたのであろう。資料の収集が未だ不十分であることを踏まえつつ、今後の課題としたい。

《参考文献》
 ロバータ・L・スティブンス『根づいた花―メリー・D・ジェッシーと尚絅女学院短期大学』河内愛子訳(キリスト新聞社)2003年
 100年史編集委員会編『尚絅女学院100年史』2002年
 70年史編集委員会編『尚絅女学院70年史』1962年
 西田耕三・宍戸朗大・永澤王恭・せとかつえ・渋谷和邦・橋本尭夫『吉野作造と仙台』(宮城地域史学協議会)1993年
 栗原基『ブゼル先生伝』 伝記叢書109(大空社)1992年
 栗原基先生記念追悼集刊行会『栗原基先生記念追悼集』(昭森社)1980年
 菊沢喜美子『思い出の父 栗原 基』(白羊堂印刷)1969年     
 むつみのくさり編集委員会『むつみのくさり』(尚絅学院同窓会)2004年
 治安維持法国賠同盟宮城県本部『こころざしつつたおれし少女よー高橋とみ子・伊藤千代子を偲ぶつどい』2006年
 伊藤千代子の会『伊藤千代子と現代 No.2』2007年
 野呂アイ『尚絅女学校同窓生の青春群像―戦時下の生き方をめぐって―高橋とみ子墓前祭つどい』(レジュメ)2007年、他

野呂 アイ(のろ・あい)
 1936年 秋田県横手市に生まれる
 1960年 東北大学教育学部(教育心理学専攻)卒業
 1962年 東北大学大学院教育学研究科修士課程修了
      栃木県で高校の教員、東北大学教育学部助手を経て
 1970年 尚絅女学院短期大学に勤務
 1982年 同短大教授
 2003年 尚絅学院大学教授(人間心理学科長)
 2007年 同大学定年退職(名誉教授)
      現職 社会福祉法人木這子(理事・評議員)
      木這子発達心理学研究センター

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中洲小時代の川上茂
(2008年9月23日) 

今 井 清 水
(諏訪市こころざしの会会員)

◆川上茂と早教育
 師範新卒として赴任した川上茂の中洲小時代は、大正五~九年の五年間ですが、千代子にとっては、分校から転入した五年生の九月以降、川上の教育を受けた一年七ヶ月の小学校生活と、諏訪高女三年生までの時期に該当します。
 この五年間に彼は、(1)二つの教科研究レポートを発表し、(2)理科委員を務めたほか、(3)諏訪児童学会の会員としても活動したと推測されます。

  1. 第一のレポートは「学齢期児童の数概念」で、小学一年生の入学当初二ヶ月間の実態調査を報告したものです。第二のレポートは、「理科教授の理論及実際」で、子どもの持つ理科分野の疑問についての実態調査経験を紹介しています。どちらも大正九年、信濃教育会の会誌『信濃教育』に発表されました。
  2. 第二のレポートは、彼が諏訪教育会理科細目研究委員を務めていたときのものです。彼は、同会の「理科細目」(教師用指導計画)や「理科筆記帳」(児童用学習帳)の編纂に関わっています。
  3. 大正八年、全県的な児童研究会と密接に関連して生れた諏訪児童学会は、研究範囲を「児童の身体・精神の全部を含む、教育に直接関係あるもの」として、会員を募っていました。彼の研究スタイルからみて、二つのレポートは、会員としての活動の中で触発された部分が大きいと思われます。

 レポートからもわかるとおり、彼は理数系の教師であり、研究姿勢は実態調査にもとづく実践的なものでした。理数を軽視したといわれる白樺教師とは、対照的です。元県教育史編集主任の中村一雄さんは、「論文の大部分は、小学校教科教育法の裏づけとなる基礎理論を追究した発達心理学的な研究調査の報告である」と述べ、①発達心理学を援用した子ども個々の実態調査から、②教え方の基礎理論を導き出そうとした、と指摘しています。

 中洲小時代の川上茂の教育スタイルについては、〈英才教育〉〈二重教育〉〈個性的な教育〉〈特殊授業〉〈特別教育〉などと表現されていますが、〈早教育〉という言葉に集約できます。今風に言えば〈選抜・エリート教育〉です。
 川上茂の早教育への持続した意欲・こだわりを示唆する二つの事例があります。
 第一は、中洲小以後に発表したレポートです。松本女子師範付属小へ転じた二年目(大正十一年)に、続編「再び学齢期児童の数概念」を発表。翌年、「児童の語彙」を長期連載(六回)しています。注目したいのは、「数概念」も「語彙」も、早教育の最重要テーマであったという事実です。
 早教育に大きな影響を与えたカール・ヴィッチ(一九世紀のドイツ人法学者)は、著書『カール・ヴィッチの教育』の中で、次の点を強調しています。――就学前から豊富な知識を獲得させるためには、語彙を増やし、文字を早く覚えさせること、数概念を養成し、四則計算を習得させることだ――と。 
 早教育の文献のほとんどは、新教育運動が日本に紹介された明治末~大正四年にかけて翻訳され、六年には『早期教育と天才』(木村久一)が出版されています。“早教育花盛り”の中で師範生活を送った川上茂が、これらの文献を読んだ可能性は大きいと思われます。
 彼は〈川上茂流早教育〉の試みにこだわり、「数概念」と「語彙」への関心を、中洲小以後も持ち続けていたと考えられます。
 第二は、川上茂の子息が、「母から聞いた話」として――父は何を考えたのか教職を離れ、京都大学に籍をおいて、…電気工学の勉強をしていたことがあるそうです――と書き残しているエピソードです。千代子たちを卒業させた後の、大正七年か八年のことです。この「事件」の底流には、〈川上茂流早教育〉に対する教師仲間の冷たい視線や、「女子にばかりひいきしている」と騒ぐ村人の、川上排斥の動きがあり、地元新聞の投書記事が、油に火を注ぎました。復職を許してくれた田中一造校長を、彼は「恩人」と語っています。
 〈川上茂流早教育〉で使用された教材は、荘子、カント、ヘーゲル、大隈重信(当時は総理辞任直後)の『小国民読本』や、ルソーの『ざんげ録』、教科書より高級な国語、理科、哲学、倫理学などのプリントでした。
 岩波小辞典『教育』は、――その急速な発達が当人の人間的成長にとっていかなる意味をもつかが問題である――と指摘しています。
 新村義広さんは、「特殊な差別教育を受けることには、多少の違和感をいだいた」と述べ、
千代子は、後年、背伸びしていた自分を反省し、「若い時代を若く生きたいと考えるようになりました」と手紙に書いています。早教育が本来的に孕む矛盾と、子どもへの違和感・重圧感を読み取ることができます。

◆川上茂と白樺教育
 平林たい子の『春のめざめ』には、〈川上茂流早教育〉への痛烈な批判とも取れる叙述があります。――(彼の)教育上の興味は、自分の抱負を担う力のある…生徒の上に集っていった。劣等生たちは、絶対に名指しされて本を読ませられることはなく、ますます劣等生に落ちていた――と。
 選ばれなかった「数多い平凡な生徒」たちは、彼の“白樺教育”で救われたのだろうか。 注目したいのは、《川上茂=白樺教師・千代子=白樺の子説》は、『イエローローズ』から始まり、『時代の証言者 伊藤千代子』に引き継がれているという事実です。
 『時代の証言者』では、川上茂は「白樺派自由主義教育の熱心な教師」と位置づけられ、根拠の一つとして、国定教科書にとらわれずに独自のガリ版教材などを使ったことが挙げられています。
 この根拠に関連して、村山英治さんは『大草原の夢』で――画一主義の教育を排する教師は、白樺派だけではなく…広範にいた。ひからびた修身の教科書は全く使わないとか、補助教材を使うことは、常識になっていた――と述べています。
 信州教育界における、中洲小時代の川上茂の座標について、みることにします。
 当時、「教師の人間的な覚醒」をめざした信州の教師グループのうち、最大グループは人格主義を標榜する東西南北会で、西田哲学の信濃哲学会、鍛錬道を唱える島木赤彦のアララギ派とともに、信濃教育会のリーダーシップをにぎっていました。聖書研究会や信州白樺派などは少数派でした。川上茂は、〈田中一造→藤森省吾→島木赤彦〉とつながる、反白樺派人脈に位置づく教師でした。
 藤森省吾は、〈教育による寒村の更生〉を課題に農村教育に打ち込んだ指導者です。川上の一年後輩の小口伊乙さんは、「川上君は藤森省吾を師とし、その教育は、川上君の教育熱意を燃え上がらせた」と記しています。
 また、「子どもの個性と自我の発見」を目指した信州の自由教育には、①白樺教育、②県下教科(児童)研究会、③師範付属小での研究学級、④自由画教育運動、などの潮流がありました。川上茂は、②③に関心を持ち、〈青木誠四郎→杉崎瑢〉につながる教師でした。 
 青木誠四郎は、川上の研究をサポートし、後々まで影響を与えた二年先輩の児童心理学者です。杉崎瑢は、川上の研究の間接的指導者で実験心理学者です。『信州の教師像』では――研究の焦点を児童にも向けるべきことを説いて、児童研究会・研究学級を指導し、信州自由教育のために万丈の気炎を吐いた――と評価されています。
 良い児童読み物が必要だと感じ、その執筆を島崎藤村に依頼し、『をさなきものに』を世に送り出した赤羽王郎。野外で砂山作り・水遊びをさせながら、いろいろな歌を歌い、詩を作ることを体験させた中谷勲。時間割も作らない自由進度学習。教科書ではなく『ゴッホの生涯』を修身(道徳)学習の教材とした一志茂樹。――このような教育を川上茂も中洲小でおこなったのだろうか。今、私の手元にそれを確認できる資料・情報はありません。
 川上茂の『遺稿集』や『信州の教師像』(伊藤朝雄)・「上条茂の人と業績」(『信濃教育』特集)・『長野県教育史』を含め、目を通すことができたおよそ二十点の中に、《川上茂=白樺教師説》を示唆・肯定している文献を見つけることはできませんでした。
 松木ムメヨさん・作家となった平林たい子・新村義広さんなど教え子たちの語る回想が、早教育に集中し、〈川上白樺教育〉の具体が話されないのも、頷ける気がします。右手でエリート教育、左手で白樺教育ということが、矛盾なくできたのか疑問が残ります。
 川上茂は大正十年、松本女子付属小へ転任しました。異例の抜擢人事です。他郡へ不本意に飛ばされたり、教職を辞したりすることの多かった信州白樺派教師の軌跡とは、大きな違いを見せています。

 千代子について言えば、彼女の諏訪高女四年間は、白樺運動の盛り上がった時期と重なっています。諏訪高女を会場とした柳兼子音楽会・柳宗悦講演&ブレイク展や、上諏訪町での小泉鉄(足尾鉱毒問題)講演会・泰西絵画版画&ロダン展・岸田劉生展など、目白押しでした。千代子は、自由と白樺の風の中で成長し、自分の道を切り拓いていったのだと思います。平林たい子は、『婦人闘士物語』の中で、「女学校へ入ってからは、…千代子さんは白樺派風に変わって行き」と書いています。
 川上茂は、「九州紀行」(昭和四年)の中で
「千代子氏が死んでしまった事は惜しいことだ」と記しています。千代子への、あまりにも簡潔な、唯一の言及です。

今井 清水(いまい・きよみ)
 ◆1936年長野県諏訪市に生まれる
 ◆信州大学教育学部卒業
 ◆在職中、諏訪教育郡史編纂委員、『諏訪の近現代史』刊行に参加
 ◆現在、伊藤千代子こころざしの会会員
 ◆諏訪市在住

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ますます盛況、多喜二フェア

(2008年8月6日) 

 格差社会のみならず総物価高で、日々の生活が日に日に苦しくなっている今日この頃、小林多喜二の『蟹工船』は相も変わらず若い世代を中心に大きな関心を集め続けています。今や、駅の小さな書店にも『蟹工船』が棚積みされ、発行が間に合わず地方都市では入手しにくいとさえ言われています。
 しかし、『蟹工船』を読んだ若い世代の感想は様々。多いのは、「文章や漢字が難しい」「凄惨な内容で凹んだ」というもの。80年前の作品である事や、多喜二の優れた文章力が、有る部分において端的に若い世代の感性を刺激したようです。
 さて、多くの関心を集める『蟹工船』ですが、新潮文庫から出ている文庫版では、『党生活者』も併載されています。暗くジメジメしたイメージの『蟹工船』に比べると、『党生活者』はスパイ小説の趣きもあり、むしろ若い世代には『党生活者』の方が楽しく読める様です。
 そこで、平和と労働センター・全労連会館エントランスロビーに開設されている「多喜二フェア」ブースでも、『党生活者』の資料・図像を展示してみました。

こちらは讀賣新聞に掲載された広告とタイトルを消したゲラ
「党生活者」というタイトルでは、とても検閲が通らないので
「転換時代」と換えています

当局からにらまれると国家にとって具合の悪い箇所は
×印で伏せ字にさせられます


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堀江文庫」公開記念のつどい

(2008年4月25日)

日本福祉大と提携、「堀江文庫」委託公開へ
 財団法人全労連会館は、かねて北区滝野川資料センターに「産別会議記念・労働図書資料室」の整備・拡充を進めてきましたが、今般、日本福祉大学付属図書館所蔵の「堀江文庫」(経済学者・堀江正規氏蔵書)の委託公開を行うこととし、その準備が整ったのを契機に、4月25日「『堀江文庫』公開記念のつどい」を開催しました。
 「つどい」には、堀江正規氏長女の亜子さん、日本福祉大図書館課長の岡崎佳子さん、主宰の財団法人全労連会館役職員、共同事業者である労働運動総合研究所役職員、旧産別記念会関係者、レッドパージ反対全国連絡会、金属労研、連合通信社などから30人が参加して、開架式書架に整備された「堀江文庫」5000冊余の蔵書参観を行いました。
 引き続き「つどい」に入り、藤田廣登副館長(財団常務理事)の司会で開会、大木一訓館長(労働総研代表理事)の開会挨拶、日本福祉大学を代表して岡崎佳子さんが、遺族を代表して堀江亜子さんが、それぞれ謝辞を述べました。ついで、旧産別記念会を代表して杉浦正男氏が、当財団を代表して熊谷金道理事長が今後の抱負を述べ、藤吉信博労働総研事務局次長が今後の開館日等についての方針を報告しました。

「堀江文庫」の寄贈・移設に尽力いただいた
日本福祉大学図書課長の岡崎佳子さん

故堀江正規さんのご遺族で娘さんの亜子(つぎこ)さん
到着した時が挨拶の順番というナイスタイミングな登場でした


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レッドパージと戦後の労働運動

(2007年8月20日) 

 去る8月20日、平和と労働センター・全労連会館3階304・305会議室にて、元参議院議員(法務委員会所属)の吉岡吉典さんを講師にお招きして「レッドパージと戦後の労働運動」と題する講演会を催しました。準備期間が短かったにも関わらず、40人を超える参加者を得て、大盛況となりました。
 参加者の多くの方が、レッドパージの時代をリアルタイムに体験された方々で、中には実際にパージされた人もいて、講演会のあとの質疑応答では、活発に質問、意見が出され、有意義な講演会となりました。
 レッドパージから58年が経過し、あの時代を生きた人たちはみな高齢者です。しかし、今もって政府からは謝罪も補償もなく、レッドパージは歴史の1ページと化しつつあります。この国に生きる人々が、何人からも生きる権利と自尊心、人権を侵害される様な事が起こらない様にする為にも、過去を風化させてはならないと思います。その意味で、貴重な講演会となりました。

40人を超える参加者で大盛況
椅子が足りなくて、他の部屋から補充しなければなりませんでした

講師の吉岡吉典さん
多くの参加者に恵まれて、大満足?